コソボについて語るときに、必ず話題にのぼるのが紛争のこと。当時、新聞やニュースで話題になっていたのを覚えていたり、教科書で習ったりした人は多いと思います。
コソボは発展途上の国で、訪れるたびに新しい道路やビルが建設され、インフラの整備も進んでいっています。一見紛争があったことは分からないかもしれません。
だけど、紛争は確かにここで起きたことで、見た目には分からなくても、今でもコソボの政治経済に影響を及ぼしています。そういう意味では、紛争はまだ終わっていないのです。
コソボを知る上で、紛争はとてもデリケートかつ重要なキーワードです。ここでは、コソボ紛争について大まかな概要をまとめてみました。
もともとはセルビアの自治州だったコソボ
コソボ紛争は、セルビア共和国(当時のユーゴスラビア)の一自治州だったコソボが、独立を求めて起きたものです。
そもそもコソボは、人口の90%をアルバニア系住民が占めており、高度な自治権が認められていました。しかし、1989年にセルビア政府がコソボから自治権を剥奪したことで、アルバニア語は公用語から外され、多くの人が仕事を追われてしまいます。アルバニア系住民の生活は大きく制限されてしまうことになったのです。
アルバニア系住民は抑圧され苦しい毎日を送る中、強く独立を求めるようになります。
非暴力路線から武力紛争へ
独立を求めていたアルバニア系住民たちは、当初はイブラヒム・ルゴヴァ(1944-2006、後のコソボ初代大統領)による非暴力路線を支持していました。
しかし、抑圧された現状は変わりませんでした。それにいらだちを覚えた人々は、武力行使を辞さない「コソボ解放軍」に期待をするようになります。
コソボ解放軍とセルビア部隊の間で本格的な武力衝突が起きたのは、1998年のことです。武力衝突はコソボ各地に広がり、アルバニア系住民への抑圧や虐殺が、国際的に注目されるようになりました。
NATOによる空爆
そして1999年3月「人道的介入」という名目の下、NATOによるユーゴスラビアへの空爆が実施されました。空爆は78日間続き、爆撃回数は17000回にのぼります。
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空爆後、アルバニア系住民への迫害が激化したことにより、当時人口が約200万人だったコソボで、85万人のアルバニア系住民が難民と化しました。それ以前に脱出した難民を加えると、難民化したアルバニア系住民の数は人口の半数強に及びます。
紛争の終結
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国際社会の介入により、セルビア部隊はコソボから引き上げられることとなり、1999年6月に紛争は終結します。
しかし、今度はアルバニア系住民による非アルバニア系住民への報復行為が行われました。報復を恐れ、20~25万人にものぼるセルビア系住民らが難民化するという事態も発生しました。
紛争終結後、コソボは国連の統治下に置かれ、現地には治安維持のためにNATO軍主体のKFORが展開されます。
コソボの独立
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2008年2月17日、コソボはついに独立を宣言します。セルビアとの合意はなく、一方的なものだったため議論を呼びましたが、アメリカを始めとした複数の国がすぐにこれを承認しました。
日本は3月にコソボの独立を承認していますが、セルビアを始めとして、未だにコソボを国家として認めていない国も多数あります。
コソボ紛争を引き起こした根本の原因は、民族間の不和ではない
以上、簡単な説明でしたが、一つだけ強調しておきたいことがあります。コソボ紛争は「民族紛争」とい言われるため、アルバニア系住民対セルビア系住民の対立という面が強調されがちですが、紛争の本当の要因はそこじゃない!ということです。
コソボにはこれからも、乗り越えていかなければならない課題がたくさんあります。でも、私はコソボの未来を信じています。だってコソボが大好きだから!