歴史を教えることの目的は何か? 過去の栄光を喜び、不運を正当化し、悪事の弁解をすることだろうか? あるいは、子どもたちが歴史的な進歩を理解するのを助け、それによって彼らの批判的思考を発達させることだろうか?
Pavlowitch,Stevan,”History Education in the Balkans: How Bad Is It?,” in Journal of Southern Europe and the Balkans, 6, no. 1(April 2004), p.68.
今日は、バルカン諸国の歴史教科書の比較研究を題材とした本、柴宜弘編『バルカン史と歴史教育ー「地域史」とアイデンティティの再構築』(徳間書店、2008年)を、かなり真面目に紹介したいと思います。タイトルからはマニアックな印象を受けると思いますが、とても普遍的なテーマを扱っています。
バルカン諸国の歴史教育についての分析
この本には、各国の研究者がバルカン諸国の歴史教科書について分析した論文が掲載されています。コソボへの言及はほとんどないのですが、旧ユーゴスラビア各国において、紛争の前後で歴史教科書の記述がどのような変化を遂げたかが紹介されていて、とても興味深いです。
読んでみると、どの国も自民族中心の視点から歴史教育を行なっており、国によってずいぶん違う歴史の教えられ方をしていることが分かります。
中には日本の教科書では考えられないようなびっくり記述もあります。特にギリシャはすごいです。謙譲を美徳とする日本人なら赤面レベルの自画自賛ぶりでちょっと笑ってしまいます。さすがマケドニアを北マケドニアに改名させた国ですね。
「歴史」と「記憶」が貢献するものとは何か
「歴史」と「記憶」の関係は、とても興味深いものです。「記憶への関心の高まりは国民史における残酷な曲がり角と期を一にする」という言葉のとおり、旧ユーゴの紛争では、しばしば自民族共通の「記憶」が、自分たちの犠牲者化と相手の加害者化のためのプロパガンダとして利用され、民族間の憎しみを増長させる役割を果たしました。
同書では、「南東欧における民主主義と和解のためのセンター」というNGOが取り組んでいるプロジェクトについて紹介されています。これは、南東欧のすべての国のための共通の歴史教材を作成し、各国での歴史教育においての使用を目指すものです。
民族間の緊張を高めさせてしまう一端となったのが各民族で「記憶」された「歴史」であるならば、歴史教育は和解のための一翼を担えるはずです。このような前向きな取り組みがあることには、希望を感じますよね。
また、東アジアにおける歴史認識問題についての言及も印象的です。「朝鮮半島・中国で、直接の被害者でない世代が被害者意識を継承し、それを直接の加害者でない日本の「戦後」生まれにぶつけている」こと、「「被害者意識の世代間継承」には、どのような正当性、妥当性があるのか、問わねばならない」という記述には、歴史教育を身近な問題として考えさせられます。
もちろん同じような問題は、コソボをめぐっても起きていると思います。紛争を体験していない世代や、紛争時コソボにいなかったアルバニア人・セルビア人ディアスポラが、紛争を「記憶」し、互いの民族への憎しみを継承してしまうことは大いにあるでしょう。
歴史教育の可能性
そういったことを考えると、ザグレブ大学のスニェジャナ・コレン氏による、歴史教育は多角的視点を提供すべきものであるという指摘は心に響きます。
コレン氏は、「さまざまな歴史や多角的視点を提供することによって、生徒たちが、「私たちのナショナル・ストーリー」が第一印象よりもずっと複雑なものであると認識したり、我々の隣人をさらに理解しようとすることを促進する」と指摘し、「周囲の状況と、彼らの周りで起こったことの原因を理解させるという観点から、生徒に学ばせなければならない」と述べています。
日本では最近「自虐史観」という言葉が使われることがありますが、重視すべきは「歴史観」ではなく「歴史認識」だと思います。自分たちで歴史をどう認識するのか、考える力をつける教育が必要ですよね。
コレン氏はまた、「長い目で見れば、我々は歴史教育に希望を見出すことができるだろう。歴史教育は、多様性に対する寛容と敬意を育み、そして何より、与えられた情報を批判的に受け取る能力を生徒の中に育てるものである。」とも述べています。バルカン地域や旧ユーゴに興味がない人にも、ぜひ読んでほしい一冊です。